日本の最初の宣教師、フランシスコ・ザビエル(Francisco Xabier)が生れたのが、このハビエル城(ザビエル城)です。現在は、フランシスコ・ザビエルの生涯を綴る博物館になっています。
このハビエル城(ザビエル城)があるのが、現在のスペインのナバラ州、州都パンプローナから東に52km、ハビエル(ザビエル)の町の丘の上です。他の町同様、ここバスクにはスペイン語名とバスク語名の地名が存在します。この町は、スペイン語ではJavier(ハビエル)、そしてバスク語ではXabier (シャビエル)と呼ばれています。日本ではいつしか、“ザビエル”が一般的に用いられますが、これは”Javier”または”Xabier”の訳になります。
そうなんです。驚きなのは、彼の父方の苗字は”Jasso”(ハソ)、母方の苗字は”Axpilicueta”(アスピリクエタ)であり、家族の苗字ではなく、「ハビエル(ザビエル)町のフランシスコ」というのが、彼の名前の由来なのです。当時は、現在のように子供たち全員が親の苗字を引き継ぐという習慣はなく、基本的に家系の跡継ぎになる長男・長女のみが苗字を引き継ぐことが一般的でした。5人兄弟の末っ子として生まれたフランシスコは、両親の姓を名乗ることはなく、ローマ教皇に叙階の依頼をする際 ”Francisco de Xabier” ―「ハビエル村のフランシスコです」と名乗り、それが彼のフルネームとなっているのです。イエズス会の創設メンバーの1人であり、日本を始め多くの国にキリスト教信仰を導いた功績がたたえられ、カトリック教会の聖人となっているため、現在スペインやスペイン語圏の国では”Javier”は男性の名前としてよく使われますし、バスクにはバスク語の”Xabier”という名前の男性が多くいます。
1525年に19歳でパリの大学に入学し、そこで出会った仲間たちと「世界宣教」という目標を立てイエズス会を設立。当時ポルトガル王の依頼で、ポルトガルの領地であったインドのゴアに派遣されたのが1540年。その後1547年にゴアでたまたま出会った鹿児島出身のヤジロウと出会い、1549年8月15日に鹿児島に、日本初の宣教師として上陸したのです。
その後、日本で宣教活動をしていくうえで、日本に大きな影響をもたらす中国での布教は必要不可欠と考え、1552年の4月に日本を出発し同年9月に上川島に到着。しかし中国への入境は思うようにいかず、同年12月に病が悪化し46歳の若さで、その壮絶な人生に終止符を打ったのでした。
彼は異国での様々な経験を事細かに家族に手紙を送っており、この博物館ではそういった手紙なども保管されています。
アラゴン王国とナバラ王国の境目の近くに位置し、現在に至るまで、数多くの領土紛争に巻き込まれてきたこのお城。一時はかなり損傷が激しい時代もありましたが、20世紀の初頭に、所有権がイエズス会に受け渡されると、大々的に修復され、現在は当時の美しい姿を取り戻しています。